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大阪大空襲
Osaka Air Raid

第2次世界大戦において、大阪では50回をこえる空襲により、市街地の主要部は廃虚と化し、大きな被害を受けた。

大阪大空襲
1944年12月から終戦前日の1945年8月14日まで、大阪に対する米軍の空襲は約50回に及んだ。
来襲爆撃機のべ2,136機、投下爆弾13,603トン。100機以上に爆撃された大空襲は8回。犠牲者は死者1万2620人、行方不明者2173人、重軽傷者約3万1000人、焼失家屋等342,214戸。空襲罹災者は120万人を超えた。
1945年3月13〜14日の大規模な空襲では、B29爆撃機による焼夷弾が市街地を焼き尽くし、4000人近くが亡くなった。
During World War U, the major sections of Osaka were totally demolished due to more than fifty air raids.

Osaka Air Raid
The air raid of the U.S. military to Osaka had reached about 50 times by August 14 in the day 1945 before the end of the war from December, 1944. The total of B29 bomber was 2,136 and the dropping bomb was 13,603ton. The massive air raid of 100 or more B29 bombers was 8 times. The damage of an air raid was 12,620 dead persons, 2173 missing persons, about 31,000 those injured, and 342,214 houses burned down. The air raid sufferers exceeded 1,200,000 people. In the massive air raid of B29 bomber, the Osaka city area was burned down with the incendiary bomb. And about 4000 persons died. March 13, 1945.

千日前大阪歌舞伎座から北の道頓堀一帯を望む。
東京大空襲の3日後の1945年3月13日の大空襲(1945年3月13日23時57分〜14日3時25分)の約3時間半にわたり、279機のB29は無差別爆撃を行った。大阪の街に1770トンの焼夷弾を降り注いだのだ。一夜にして約50万人が罹災し、13万戸を超える家屋が焼失し、約4000名が命を落とした。
大阪ではその後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日に空襲が行なわれた。そして、終戦前日の8月14日、大阪は7度目の大空襲を受ける。
B29爆撃機145機が市内の軍事施設を空爆し、大阪城内にあった日本最大の兵器工場、陸軍造兵廠には約700トンの焼夷弾が投下されて瓦礫の山と化したのである。

大阪空襲写真
爆弾を落とすB29爆撃機。
見える爆弾一つ一つは親弾。途中で分解して、48本の焼夷弾が降り注ぐ。

昭和20年6月1日
軍港と工業住宅混合地域の大阪港沿岸部
昭和20年6月1日
B29による大阪港のドックや倉庫への白昼爆撃。この爆撃で大阪の26%が破壊された
昭和20年6月1日
焼夷弾。ザーっという無気味な音とともに火の雨となって落下した。
■ 大阪空襲 6月1日
 

大阪空襲 −大正区− 6月1日
PLAY VIDEO
6月1日大阪大空襲 作戦参加機数
 (アメリカ軍記録)
 B29爆撃機   458機(損失10機)
 P51護衛戦闘機 148機(損失27機)


6月7日大阪大空襲 作戦参加機数
 (アメリカ軍記録)
 B29爆撃機   409機(損失2機)
 P51護衛戦闘機 138機(損失1機)


7月24日大阪大空襲 作戦参加機数
 (アメリカ軍記録)
 1回目:B29爆撃機 82機(損失1機)
 2回目:B29爆撃機 153機(損失0機)
太平洋戦争末期の空襲で焼失した大阪市街地を、空襲の時期別に色分けした被災地図

大阪空襲は、1944年12月から終戦まで50回以上を数え、うち大規模な空襲は8回あり、市街地の大部分を焼き尽くした。
地図は、大規模空襲の1回目(1945年3月13〜14日)を赤、2回目(6月1日)を青、3回目(6月7日)を茶色、4回目(6月15日)を緑、5回目以降を黄色で細かく塗り分けている。




3月13日大阪大空襲直後の道頓堀相合橋付近
(朝日新聞社)


昭和20年6月2日付朝日新聞

米軍が投下した焼夷弾                                 無差別空襲の思想

昭和二十年三月九日深夜から十日未明の東京大空襲は、米軍による戦略爆撃の大きな転換点になった。兵器関連の工業施設を選別して爆撃する精密爆撃に代わり、工場といわず住宅といわず都市そのものを焼夷弾で焼き払う無差別爆撃を開始したのだった。

では、日本全国の都市を焼け野原にした焼夷弾とは何だったのだろうか。焼夷弾のほとんどがM69と呼ばれるもので、正六角形をした鋼鉄製の筒の中身はナパームだった。
ナパームはゼリー状の油脂ガソリンで、ナフサネート(石油精製の副産物)とパーム油(椰子油などの油脂に水素を添加したもの)を混合したもので、M69はさらに亜鉛、鉛、燐、ガソリンなどを混入して、着火と燃焼力を強化させたものだ。
このM69を十六個ずつ束ねて三段に積み上げて合計四十八個をひとつにしたのがM69集束焼夷弾と呼んだ。

この爆弾を投下すると集束していた帯が解かれ、M69が空中でバラバラになる。
すると飛び出した布製のリボンが着火して、まさしく火の雨が降るような光景が出現したのだ。これが屋根を突き破ったり、着地すると五秒以内にTNT爆薬が炸裂。その中のマグネシウム粒子によってナパームに火がつく。
その燃焼エネルギーによって鋼鉄製の筒を吹き飛ばし、三十メートル四方にナパームを撒き散らして、建物全体を火炎に包み込むのである。
 岐阜空襲の際に、B29が投下した焼夷弾の本物です。
焼夷弾とは、現代の軍事用語では、ナパーム弾と呼ばれているもので、火薬を詰めて物体を破壊する目的の通常の爆弾ではなく、発火・延焼性の強い油脂を詰めた投下弾で、信管部分の火薬によって発火し、火のついた油脂が四方八方に飛び火して、家屋などを焼くという目的のものです。
 木造建築の多い日本の都市の絨毯爆撃には、もっぱらこの焼夷弾が使われました。

 B29に搭載時は、写真の六角形の焼夷弾がたくさん束ねられて、1個の親焼夷弾となっています。投下されて落下時に、親焼夷弾が破裂して、写真の子焼夷弾をばらまく仕組みになっています。

 右の写真はその全体像です。長さは、約50センチ。
 左は上から中を撮したものです。この中に油脂が入っていました。

 信管は、右上の写真では、最下端の丸く見える部分です。この部分に火薬が入っており、信管が作用すると、小爆発が起こって、火のついた油脂が飛び散る仕組みです。

 但し、信管は右下の写真で分かるように5_ほどの突起で、落下しても何かの理由で発火しない場合もありました。
 戦後、そのような不発弾があちこちにあって、物資のない当時、うまく分解して、油脂を燃料に使ったという話があちこちの記録や回想録にでています。

 この焼夷弾は、昭和60年頃廃品回収業者の知り合いに、どこかから出てきたら是非保存しておいてくださいと頼んで、うまく入手したもので、残念ながらそう簡単には手に入りません。
 実はもう1本持っていますが、こちらは金属のサビが進んで、もうすぐ形がなくなりそうです。
 

http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/genbutu/genbutunihonshi02.htm#KD008
昭和20年6月1日、大阪市を襲うB29

右主翼の下には大阪城が見える。
右翼の下方付近に左へ黒く湾曲して見えるのは大川(旧淀川)で、見えるのは大川沿いの天満橋から桜宮公園に至る地域です。その手前の 合流する二つの川に挟まれた地域が、大阪市役所、日銀大阪支店、公会堂、などがある中之島で、右上に環状に黒く見えるのは大阪城の北外濠、西外濠で、内濠に囲まれた中央に大阪城の天守閣が見える。機体の下方に白く見えるのは雲ではなく、先行機の焼夷弾攻撃により既に建物が炎上している煙です。この日の空襲は474機が来襲し、午前9時ごろから2時間にわたって2788トンの焼夷弾を投下し、その結果死者3083名、焼失家屋は6万戸を超え、22万名近い被災者を出した。 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/b-29bomber.htm
大阪空襲で爆撃に使用された爆弾の原寸模型
「2000ポンド爆弾」(通称1トン爆弾)。長さ約1メートル80センチ、直径約60センチで弾頭と弾底部分に信管が付いている。
昭和20年3月15日付毎日新聞
空襲で焼き払われた大阪

月面のクレーターのような爆弾の穴が1トン爆弾爆撃の凄まじさをものがたっている。

Osaka was levelled by fire-bomb attacks of B-29s Superfortresses.


1945年7月26日の大阪市東住吉区田辺本町での模擬原爆の爆発
(東方出版発行の「原爆投下の経緯」から)

大戦中の大阪府警察局の報告書や大阪市が戦後作成した『昭和20年大阪市戦災概観』から、現在の北田辺、田辺、南田辺、東田辺で午前9時26分に警戒警報が発令され、僚機を伴ったB29が大型爆弾一個を落としてすぐに引き返したことが判明した。この模擬原爆の被害は7人死亡、傷者73人、被災者1600世人、倒壊家屋485棟であった。

原爆投下には厳重な秘密保持とともに綿密な訓練が必要だった。九千メートル前後の高度から投下し、50秒くらい経過してから爆発する。原爆はB29の進路と同方向に落下していくため、そのままではB29は原爆爆発で生じる一万三千メートルに及ぶと想定される衝撃波に巻き込まれる。そこで、「原爆投下直後、巨大なB29の機体を右へ150−155度急旋回させて退避することで、原爆の破壊力から逃れるという戦法が採用された」のだ。
焦土と化した大阪市街
大阪俘虜収容所(捕虜収容所)市岡病室が置かれた
市岡市民陸上競技場スタンド(大阪市港区市岡)

大阪空襲(焼夷弾攻撃) 1945年
Target
攻撃都市名
Date
日付
Attack Force
B29爆撃機数
Escort Force
P51護衛戦闘機数
Bomber Losses
B29喪失機数
Area destroyed
(square miles)

焼失面積
(平方マイル)
Osaka
大阪
13-14 March
3月13-14日
274 - 2 8.1
1 June
6月1日
458 148
(P51喪失 27)
10 3.2
7 June
6月7日
409 138
(P51喪失 1)
2 2.2
15 June
6月15日
(Osaka-Amagasaki)
444
100
(P51喪失 0)
2 2.5
26 June
6月26日
64+109 144
(P51喪失 0)
1 Sumitomo Light Metal
Osaka Army Arsenal
9-10 July
7月9-10日
(Osaka-Sakai)
115
0 0 1.02
24 July
7月15日
Osaka - 2 separate raids
82+153
0 1 Shumitomo Metal
Osaka Army Arsenal
14 August
8月14日
145 - 0 Osaka Army Arsenal

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Last updated : September 10, 2005

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