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ガマ(自然壕)の悲劇
“GAMA”( The Cave )
沖縄には「ガマ」と呼ばれる自然に出来た洞窟・鍾乳洞が多くある。そのガマが沖縄戦においては、アメリカの艦船から住民に降り注ぐ激しい砲撃「鉄の暴風」から守る防空壕の役割を果たすが、それでもなおかつ死者が続出した。ガマは平地の畑の中にぽっかり口を開けていることが多い。これは琉球石灰岩が水によって浸食形成されたものである。つまり地下水に恵まれているため住民達の避難壕や、日本軍の陣地、野戦病院として防御拠点として使われた。日本軍は首里城決戦を避けて南部の糸満(いとまん)や南風原(はえばる)に撤退し持久戦をとった。アメリカ軍は大がかりな掃討戦を仕掛け、民間人を含めた悲惨な戦場と化した。

沖縄戦では多くの死者が出た。「戦闘員約十万人、民間人約二十万人が死んだ」とされている。アメリカ軍の砲弾で死亡した者がその大半である。軍民が雑居したガマの中では日本兵による幼児殺害、食料強奪、住民のガマからの追い出し、「集団死」の強要、スパイ嫌疑による殺害などが各地で起きたとされる。ガマ内の配置は、一番危険な入り口から軍夫、住民、軍人という配置になっており、水源がある一番安全な中心部分を日本兵が独占していた。ガマの外ではアメリカ軍の砲爆撃、火炎放射、ガマの入口を土砂で埋めてしまうなど殺戮があった。沖縄の人々が日本軍の犠牲になったことは沖縄戦の重要な特徴であるが、そうした側面だけでなく、こうした戦場の実態や軍隊の体質が一般住民の眼前で暴露されたのが沖縄戦である。軍民雑居におかれたガマ(壕)は沖縄戦の悲劇を伝えている。

沖縄戦にはアメリカ軍と日本軍の攻防戦という単純な構図ではとらえられない、沖縄住民がからんだ三つ巴の葛藤劇があった。米軍による砲爆撃の攻撃の中で住民のほとんどは珊瑚礁の地下に無数に点在するガマ(洞窟・自然壕)に隠れて、飢えと渇き、いつ訪れるか分からない死の恐怖におびえながら数カ月も隠れて生き延びた。しかし米軍はガマの中にかくれていた民間人をも殺した。昼間はアメリカ軍による砲爆撃のためにガマに潜んでいた住民が夜に食糧探しや移動のために外に出ていったが、そうした人々がアメリカ兵の一斉射撃をうけて犠牲になったことはよく知られている。
アメリカ軍はガマ攻撃に対して一定の原則をもっていた。その一つが住民と日本兵の区別である。ガマの中に住民の存在が確認されると攻撃を止め、入り口から日本語、沖縄方言で投降を促している。投降を呼びかけてもそれに応じなければ一転して、日本兵も住民も一緒に火炎放射器やガス弾で皆殺しにする容赦ない攻撃を続けた。馬乗り、催涙ガス、黄燐弾、手榴弾、火焔放射等による攻撃が多く、時にはガソリンを流して火を放つなどもしている。沖縄の人々は友軍である日本兵を恐れたが、それ以上にアメリカ軍は非情であった。日本軍・民間人の区別なく無差別な大量殺戮をおこない、多くの沖縄県民の命を奪ったのである。
ガマの中に避難している住民、泣く赤子の口をふさぐ母親、そして住民を威嚇する日本兵

沖縄県平和記念資料館: 第3室(住民の見た沖縄戦『地獄の戦場』)
日本守備軍は首里決戦を避け、南部へ撤退し、出血持久作戦をとった。その後、米軍の強力な掃討戦により追いつめられ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。壕の中では、日本兵による住民虐殺や、強制による集団死、餓死があり、外では米軍による砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮があってまさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵の世界であった。    
(http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/annai/tenji_sisetu/josetuten
/3/index.html)
轟の壕(カブヤーガマ)
沖縄戦当時、千人以上が身を隠していたガマ

轟の壕
(カブヤーガマ)

沖縄本島南部には、ガマと呼ばれる大小様々な自然洞窟があった。沖縄戦の最中は、軍隊および住民の避難壕として使用されていた。轟の壕は、糸満市糸敷にある自然洞窟で、直径30mほどの円筒形の垂直のドリーネ、中段の洞窟、さらにその下の方には地下水が流れる洞窟が続いていた。

当時、轟の壕には数百人の住民が避難しており、その後、数十人の日本兵が敗走してきた。壕の中では、アメリカ軍に見つかるからと、空腹で泣き叫ぶ赤ん坊が日本兵に絞め殺され、投降しようとする住民や沖縄の方言を話す住民はスパイとして斬り殺され、米軍の激しい掃討作戦の中、避難壕から住民が追い出され、壕内で餓死する子供もいたと言われている。
一方、アメリカ軍は、投降勧告に従わない場合、住民、軍の区別なく容赦なく爆弾、手榴弾を壕に投げ込んだ。また、6月18日、真栄里で日本軍の砲撃により米軍のバックナー司令官が戦死すると、アメリカ軍は報復戦として、民間人や投降者も殺害したと言われている。


壕を手榴弾攻撃する米兵

Cave of Todoroki

There are many natural caves with various sizes, which are called Gama, in the southern section of the Okinawa Main Island. In the midst of the Battle of Okinawa, these caves were used as the army and Okinawan citizens’ refuge cave. The cave of Todoroki is a natural cave in the Itoman city, and consists of perpendicular and cylindrical doline with a diameter of about 30m, the cave of the middle, and under it the cave through which groundwater flows into further continued.

Those days, hundreds of Okinawan citizens have taken refuge in the cave of Todoroki, and tens of Japanese soldiers have fled after that. It is said that the baby who screamed from hunger was strangled to death by the Japanese soldiers because of being found by the US forces, Okinawan citizens who were going to surrender, and Okinawan citizens who speak about the dialect of Okinawa were killed with sword as spies, and Okinawan citizens were expelled from the refuge cave into the intense mopping-up operation of the US forces, and some children were starved to death in this cave. On the other hand, when surrender advice was not followed, without distinguishing between Okinawan citizens and the Japanese army, the US forces were merciless, and threw the bomb and hand grenade into the cave. Moreover, after Lieutenant-General Simon Bolivar Buckner, commander of the US forces was killed in the battle by the bombardment of the Japanese army in the Maesato village on June 18, it is said that the US forces had murdered the civilian and the surrendered persons for retaliation.


壕を火炎放射戦車で攻撃する米軍

写真手前には日本兵の死体が・・・
集団自決
昭和16年1月8日、東條陸相によって陸軍訓令第1号(戦陣訓)が発布された。
「第八 名を惜しむ」
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

Field Services Code
“You shall not render yourself to the shameful status of being a captive, but shall take your own life so as not to give to posterity your dishonourable name as a sinful man.”
戦争当時、沖縄県民たちは「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓(陸軍軍人の行動規範)の考え方を植え付けられていた。また、当時アメリカ兵は残酷だと教えられていた。捕まれば男は八つ裂きにされ、女は犯されてから殺されると人々は本気でそう信じていた。

チビチリガマの例のように、アメリカ兵に犯されるくらいならと我が子の命を絶った親。または、日本兵から渡された手榴弾で住民達は捕虜になるよりはと「集団自決」を決行した。家族や親戚で集まって手榴弾を囲んで爆発させ死を選んだ。


戦陣訓(東條英機)を語る東條英機

リンク:資料室 −戦陣訓−
1945年3月28日、渡嘉敷島 集団自決
午前10時、住民329人、北山にて集団自決する。

チビチリガマ(読谷村−よみたんそん)の悲劇は、1945年4月2日に起きた。

チビチリガマは、米軍が上陸した海岸からは800メートルほど内陸の深さ10メートルほどのV字型をした谷の底にあった。4月1日、米軍上陸後、ガマは戦車・武装兵に包囲され投降勧告「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の呼びかけが行われたが、ガマの中には民間人の村人ばかり、兵隊は1人もいない。その上、女、子供、老人が大部分である。避難民はそれを拒否。村人たちは竹槍で米軍突撃を図った。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。

避難民は一睡も出来ないまま二日を迎えた。このガマに日本軍が隠れていないことを知った米兵は、再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け食べ物を置いていった。そんな中、米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。ガマの中の住民は絶望感でパニックに陥り、そして集団殺戮の場と化した。「火を燃やして窒息死を図ったり、毒薬注射をして死にいたらしめ、注射液が尽きると、鎌や包丁などの刃物で肉親相互が殺し合うという惨劇(さんげき)が繰り広げられた」。集団死を図った141名中84名(15歳以下47名)は2時間足らずで絶命した。
チビチリガマでの悲劇が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。
チビチリガマ チビチリガマの集団自決


ガマへの攻撃(馬乗り攻撃)
先を行く火炎放射器を背負った米兵
In the end, victory was achieved at Okinawa by well-trained assault troops on the ground, like this Marine flamethrower operator and his watchful rifleman. Marine Corps Historical Center
火炎放射器により焼き殺され、切り落とされた日本兵の首。米軍により破壊された戦車上に置かれた。
The charred, decapitated head of a Japanese soldier placed as a war trophy on a knocked-out tank by U.S. troops.

沖縄南部戦線(掃討戦)

沖縄本島南部は隆起した珊瑚礁から構成され、多数の自然壕(ガマ)がある。日本軍が防衛ラインとした真栄里、国吉、与座岳、八重瀬岳と小高い丘陵が東西に連なり、このラインより南側には遮るものがなく、海岸の断崖絶壁まで、なだらかなさとうきび畑が広がっていた。

東西10Kmほどの地域に、中部戦線の残存兵30,000人、中部戦線から日本軍とともに避難してきた住民など、合計130,000人が混在していた。

中部・首里戦線の戦闘で6万人の兵力を消耗した日本軍に対してアメリカ軍は、掃討戦の形をとって追いつめていった。南部一帯は那覇・首里・中南部からの避難民と敗走する守備軍の入り乱れる戦場と化した。アメリカ軍は、この地域で海からの艦砲射撃、空からの空爆と機関銃掃射、戦車を先頭に火炎放射器による攻撃、ガソリンを流し込む等の壕(ガマ)への馬乗り攻撃による掃討戦をおこなった。


注1 馬乗り攻撃
自然洞窟にたてこもる日本軍に対して米軍が行った攻撃方法。入口から火炎放射器、爆雷、黄燐弾などを使い、中の人間を全滅させる残酷極まりない攻撃。無差別に穴口からしかけたため、多数の住民が壕(ガマ)の中で死んでいった。

火炎放射器で日本兵を掃討する海兵隊
Flame-thrower used by the Marines to "clean" holes during the Battle of Okinawa (1945).
火炎放射より壕から逃げる前に息絶えた日本兵。
全身が焼かれているが、左の手は完全に炭化しているのがわかる。


Southern front and mopping-up operation

The southern section of the Okinawa Main Island consists of upheaved coral reefs, and there are many natural caves called “Gama”. There is a slightly elevated hill of Maesato, Kuniyoshi, Yozadake, Yaesedake, standing in a row from east and west, where the Japanese army made the defensive line. From this line, there is nothing that is interrupted in on the south, and a gently-sloping land, and spread sugarcane field to the precipitous cliff off the seashore.

A total of 130,000 persons, such as Okinawan citizens who have taken refuge, the residual 30,000 soldiers, with civilian of the central front were mixed in the small area of about 10km of east and west.

The US forces held the mopping-up campaign of the bombardment from the warships at the sea, the air strikes, the air strafing, the flamethrower with tanks, pouring gasoline into the entrance of the refugee cave, called “the rider attack” in this area.

一枚の写真に見る沖縄戦の悲劇「白旗の少女」

沖縄戦の末期、沖縄本島の南部の戦場で隠れていたガマ(洞窟)を出て、白旗をかかげながらアメリカ軍に投降する少女。この少女の後方から2名の日本兵が投降した。ここに、軍民雑居となったガマでの戦いの悲劇がある。

では何故、木の枝に白い布切れを結びつけて、鬼畜米英と恐れていたアメリカ兵の前に姿を現したのだろうか。後年、この少女(比嘉富子)が1冊の本を書いた。


沖縄戦は昭和20年4月に始まり約3ヶ月にわたる戦闘が行われた。この戦いは日本の領土における唯一の地上戦であった。その結果、沖縄住民の死者は10万人にもおよび、正規の軍人の死者約6万5千人を遙かに超す惨事となった。
比嘉さんは当時7歳で、首里が戦火に巻き込まれたため、兄、姉、弟とともに南へ逃げるうちに兄は銃弾を浴びて死亡、夜道を逃亡する際、姉、弟ともはぐれてしまう。ただ1人になってしまった少女は戦場をさまよう。
ガマからガマへ「ネエネエ(お姉さんいる?)」と声をかけて回る。ひとりでガマに入っていこうとしても追い払われてしまう。子供は大きな声を出したりするため、アメリカ兵に狙われてしまうからだ。日本兵からも危険視され、お前が生きているとこちらが危ないと、何度もガマ(洞窟)から追い出された。そうやって逃げ回る途中で両手両足のない老人と目の不自由な老女の夫婦が隠れているガマに入り込み、しばらく楽しい時を過ごす。
「もう戦争は終わったから出てきなさい」という、投降を勧告する米軍の呼びかけが、ある日突然聞こえてきた。するとその老夫婦は、どうしても外に出たがらない比嘉さんをなだめすかし、老人の下着を切り裂いて作った白い三角旗「白旗」を持たせて壕から送り出したのだ。
木の枝に白い布切れを結びつけガマ(壕)
から出て来た少女。(6月25日)
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Updated May 4, 2006

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