| 10.10空襲 那覇大空襲 (The October tenth air raid.) |
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| 1944年10月10 米海軍機動部隊が沖縄を空襲 1944年9月29日、B29爆撃機は沖縄本島と周辺離島に最初の偵察飛行をおこなった。 1944年10月10日、アメリカ第三艦隊の第38高速空母機動部隊(航空母艦9隻・戦艦6隻・軽航空母艦8隻・巡洋艦17隻・駆逐艦64隻)は、南西諸島(奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島)と沖縄本島に大規模な空襲をおこなった。 空襲は午前六時すぎから五次にわたって、沖縄本島全域に延べ千三百九十六機による爆撃を行い、主として沖縄の日本軍飛行場であった嘉手納や読谷、そして那覇の港湾などを中心に米空母艦載機グラマンなどが五百四十一トンの爆弾を投下し、那覇市は焦土と化した。 飛行場や港があった那覇市は重点攻撃の対象となり第5次の攻撃が集中、焼夷弾や二百五十キロ爆弾が投下されるなど、本土初の本格的都市空襲をうけた。特に那覇市の被害が大きく、空襲で那覇市は11,000戸余り、全市の90%の家屋が全焼全壊され、那覇市民600人余が死傷し、5万余の市民が焼け出された。この空襲で安里の養蚕試験場にあった司令部も焼け首里城に司令部壕が掘られることになる。 大空襲の翌年に、20万人を超す犠牲を出した沖縄地上戦が始まったことから、那覇大空襲は悲惨な沖縄戦の悲劇を暗示するものであった。 The October tenth air raid On 29 September 1944 B-29 bombers conducted the initial reconnaissance mission over Okinawa and its outlying islands. On 10 October 1944 nearly two hundred of Admiral Halsey's planes struck Naha, Okinawa's capital and principal city, in five separate waves. The attacks focus on the port facilities around the Okinawan capitol of Naha, and more than a thousand civilians are killed. The city was almost totally devastated. By the air raid, as for Naha City, 90 % of houses of 11,000 pieces of the entire city were destroyed. Then, about 600 of the Naha City civilians suffered death or injury and about 50,000 citizens lost a house. The ground battles which let out the sacrifice which is over 200,000 the next year of the air raid started. Therefore, as for the Naha big air raid, it was predicting the traged of the battle in Okinawa. |
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| 第38機動部隊司令官 ハルゼー提督 Fast Carrier Task Force 38 Admiral Halsey |
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![]() 空襲で燃えさかる那覇の街 |
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米軍が心理作戦として沖縄の那覇が壊滅したことを 知らせるため、飛行機から東京に撒いた プロパガンダ・リーフレット Leaflet 2079 Leaflet 2079 depicts Naha City, Capitol of Okinawa, before and after an American bombing raid. The same photograph was used on leaflet 131. I am not sure that an unskilled Okinawan or Japanese soldier would be able to make out the destruction on the pictures shot from so high over head. The text to the right of the pictures is:
Naha City of Okinawa Prefecture before the bombing. After bombing |
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昭和19年10月10日 06:40時から16:00時まで奄美大島以南の南西諸島の主要な島々を空襲。沖縄本島 第1次:0640〜0820、延約240機:飛行場に来襲 第2次:0920〜1015、延約220機:船舶および飛行場に来襲 第3次:1145〜1230、延約140:機那覇、渡久地、名護、運天港、 与那原、泡瀬などの港湾施設に空襲 第4次:1240〜1340、延約130機:那覇市集中攻撃 第5次:1445〜1545、延約170機:那覇市集中攻撃 大東島 1355〜1550:18機:漁船、飛行場 奄美大島 0745〜1607:延約50〜60機:古仁屋、名瀬を爆撃 徳之島 1450〜1500:延約50機:飛行場 宮古島 0730〜1335:延約32機:海軍飛行場および船舶 石垣島 0835〜0910:8機 被害状況 日本軍 戦死:218名(第32軍136名海軍82名) 戦傷:243名(第32軍227名海軍16名) 民間 死亡:330名(内那覇255名) 負傷:455名(内那覇358名) 全焼、全壊:11451(内那覇11010) |
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| 「日本の現代史と戦争責任についてのホームページ」から下記を引用する | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| URL:http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/index.html | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一〇・一〇空襲と無差別爆撃の正当化 イラクやアフガニスタンはもとより米軍は世界各地で空爆をおこなってきた。一応、軍事施設を攻撃しているとは言っているが、実際には多くの市民が犠牲になっている。米軍による空襲といえば、日本本土各地への空襲を思い起こす。米軍は当初は軍事施設を標的とした精密爆撃をおこなっていた。もちろん実際には目標からはずれ民間人が犠牲になることが多かったが。その後、米軍が戦略爆撃として市街地に対して無差別爆撃をおこなうのは一九四五年三月の東京大空襲以降であった。 日本に対する最初の無差別爆撃とも言えるのが実は一九四四年一〇月一〇日沖縄に対しておこなわれた一〇・一〇空襲である。一日だけの空襲で那覇市の約九割が焼失、那覇は壊滅した。これは米軍が精密爆撃の戦略をとっていた時期の空襲であり、この点はこれまで日本への空襲をめぐる議論では見落とされてきた(以下の米統合参謀本部資料は大田昌秀氏が『那覇一〇・一〇大空襲』で紹介しているがこの点の位置付けについては議論されていないのであらためて取り上げたい)。 この一〇・一〇空襲に対して日本政府は中立国であったスペイン政府を通じてアメリカに抗議をおこなった。四四年一二月九日の日本政府の覚書のなかで次のように述べている。「米軍機は、学校や病院、寺院、住居などのような那覇市街の非軍事的目標にやみくもに攻撃を加え、灰燼に帰せしめた。同時に無差別爆撃と低空からの機銃掃射により多数の民間人を殺害した。日本政府は、非軍事的目標や罪のない民間人に対するこのような意図的な攻撃が、今日、諸国家間で承認されている人道の原則と国際法に対するきわめて重大な違反であると認め、抗議する。」 無差別爆撃は国際法違反であるとはっきりと抗議した日本政府の議論は―日本自らが中国などにおこなった無差別爆撃を棚に上げて米に抗議する資格はないとも言えるが―きわめて明快で今日でも有効な議論である。 この抗議を受けた米国務省は統合参謀本部に問い合わせた。統合参謀本部で調査したところ、この空襲は、敵航空機や艦船、航空・船舶施設などの破壊を任務とするものであったが、第三次攻撃までに主な攻撃目標がほぼ破壊されたので、その後のいくつかの攻撃隊が那覇市街地域の建物や倉庫を爆撃、機銃掃射をおこなったことを確認した。日本政府が主張する被害は事実であることを認めざるをえなかった。 さらに統合参謀本部での議論を見ると、米政府は民間人を爆撃することをくりかえし非難してきたので、この空襲が国際法違反ではないと主張するとこれまでの見解と矛盾してしまうことに気づいていた。また逆に国際法違反と認めると、日本に捕まった航空機の搭乗員たちが戦争犯罪人として扱われる危険性もあった。こうしたことから日本政府の抗議に対しては回答しないと決めたのである。統合参謀本部がその旨を国務長官へ伝えたのは四五年三月一日であった。要するに答えようがなくなったので無視したのである。 建前としては軍事目標を攻撃していた段階で、一〇・一〇空襲という実質的な無差別爆撃を正当化するために、確立した国際法はまだない、軍事目標の近くにいるものは保護されないと強弁する論理をひねり出していたのである。今日、米軍が空爆にともなう市民の犠牲を「誤爆」にすぎないとか「付随的損失」でしかないと言って反省しない一つの原点がここにあるように思える。 日米両国の戦争犯罪の免罪 日本政府は原爆投下についても抗議をしていた。広島への原爆投下について八月一〇日に「従来のいかなる兵器投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪状なり また全人類及び文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」と米政府に厳しく抗議した。 こうした日本政府の抗議は今日から見ても格調高い正論である。しかしながら戦後、こうした議論は放棄し、米の軍事戦略に追随する姿勢を取り続けていることは周知のとおりである。軍部や一部の政治指導者をスケープゴートにし、天皇をはじめとする国家指導者たちがアメリカと取引することによって戦犯追及を免れたこと、七三一部隊をはじめ数多くの戦争犯罪が見逃されたことは今日ではよく知られている。東京裁判もけっしてアメリカによる一方的な裁判ではなく、証拠の収集、被告の選定、天皇の免責などにおいて、一握りの軍人(特に陸軍)に責任を押し付けることによって生残りを図る政治指導者たちがアメリカとさまざまなルートで接触しながら画策し、かれらが戦後の日米同盟の担い手になっていくことも粟屋憲太郎氏や吉田裕氏の研究を通じて浮き彫りにされてきている。 忘れてはならないのは、そのことが米軍による数々の戦争犯罪を不問に付すことと表裏一体であったということである。東京大空襲をはじめB29による無差別爆撃を立案実行した重大な戦争犯罪人である、第二一爆撃軍団司令官であったカーチス・ルメイ将軍(戦後、米空軍参謀総長)に対して、一九六四年、当時の佐藤内閣が勲一等旭日大綬章を授与したことは象徴的な出来事であったといってよいだろう。
反省する者の連帯と反省しない者の同盟 ―戦争責任問題と日米軍事同盟 林 博史 URL:http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper49.htm |
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| 米軍が10・10空襲を行った目的 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「米軍にとっての『10・10空襲』は、一つ目に、レイテ島上陸作戦を容易に行うために台湾や沖縄の航空、港湾などの軍事拠点を攻撃しておく必要があった。二つ目に、これは推測の域だが、飛行場や港湾施設だけでなく、那覇の市街地を焼夷弾で攻撃したのは、B29による本土への無差別焼夷弾攻撃を行うための実験だったと考える。『10・10空襲』より前に焼夷弾による本格的な攻撃はなく、効果を確認し、本土攻撃、つまり、東京やその他の地方都市への空襲を行うための実験場だったと思われる。三つ目に、アイスバーグ作戦で沖縄への上陸がほぼ決定していたので、沖縄戦を見据え、低空飛行で飛行場や港湾などの軍事拠点をさまざまな角度から写真を撮影する必要があった」 |
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| 10・10空襲を伝える新聞(1944年10月16日) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| Last Updated March 24, 2009 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||